石水喜夫 新評論
感想長文注意。
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僕達は今、ありとあらゆる価値が市場価値で測定される時代を生きている。冷戦後、グローバリズムの波に乗って、「競争」という共同幻想を市場経済学は人々に提供してきた。しかし今や、それは幻想でしかなかったことは誰の目にも明らかだ。
市場経済学は、有効需要が拡大している状況においてのみダイナミズムを持ち得る。それはイギリスのアダム・スミスの時代であり、日本の高度経済成長期であった。そのような前提下では、新古典派経済学は成果を出してきたのは事実である。
しかし今や、先進国の人口は下向き、経済成長は鈍化し、有効需要は収縮する方面へと歩んでいっている。このような下では、市場経済学に基づく政策は無意味であるどころか、有害でさえある。まさにそれが小泉・竹中改革で推進された構造改革だった。結果は、もはや言うまでもない現状の歪んだ日本経済である。
確かに市場経済学がもたらした市場価値という物差しは、政治的な立場や個人の思想の差異を無視する便利な基準だったから、人と人との軋轢を起こさずに物事を判定するのに役に立ったのだろう。しかしそれは、人間が言葉を通じて新たな社会的価値を創出し、人とつながりあって認め合っていくという政治能力を著しく劣化させた。おかげで僕達は、市場価値だけを口に詰め込まれて生かされる存在に成り下がった。
今、自分を高めることとはイコール自分の市場価値を高めることだ。そんな例は世に満ち満ちている。例えば、「意識が高い」という言葉をキャンパスでしょっちゅう聞く。「意識が高い」学生は、企業に好かれる人間つまり市場価値の高い人間だ。彼らは、この不況下にあって行われた誤った新自由主義的雇用政策の中で、それでもエリートであろう、勝ち組であろうとする人々だ。それは確かに今の世の中で勝ちに行く手段だろう。
しかし、そのような社会は長続きしないだろう。一握りの勝者と大多数の敗者を無限に生産しつづける歪んだ市場主義で形成される社会が、まっとうなものになるはずがない。貧富の差が拡大し、労働者の没落が進行し、やがて再び世界戦争の背景になっていくだろう。本書では、戦争が有効需要を拡大し、再び市場経済学を活性化させるという極めて皮肉な性質をも指摘している。
僕たちは、市場価値という基準に丸投げするのをやめて、多様な価値観の下で協力して新たな価値を見出す連帯をつくることを目指していかなくてはならない。そしてそれを下支えする、人と人との間で軋轢と対立を抱えながら決定されるような政治的な経済政策を論議していく、政治経済学の復興が求められているのである。